LOGINリスルがヴェレーンを訪れてから、一つの季節が巡った。この季節になると、道すらも埋もれてしまうほどの豪雪に襲われるのだと、彼女が身を寄せることになったこの村の礼拝堂の神父が言っていた。
この寒村を秋口に訪れてから、リスルはしばらくの間は宿に滞在していたが、神父に薬草類を含む植物の知識を見込まれ、見習いシスターとして礼拝堂で住み込みで働くようになっていた。 この村の礼拝堂はレシェールに総本山を置く聖セレーデ教会に連なる施設である。しかし、強硬派の影響はこのような辺境の地にまで及んでいることはなく、人事権についても現地の責任者である神父に一任されているような状態だった。 リスルも最初は自分を害する教会に連なる施設に籍を置くことを躊躇ったが、この村の礼拝堂は互助組織的な側面が強く、差し当たっては危害を加えられる可能性も低いと判断した。 自分に残された時間は少ないとはいえ、衣食住を確保する必要があったし、イーシュの様子も気にはなっていた。 この村に来てすぐのころに出会って以来、身を寄せている村長の家から出てくることが少なく、リスルはイーシュとあまり顔を合わせてはいない。あれから一体、どう過ごしているのかわからないが、思いつめて自らを追い詰めていなければいいとリスルは思う。彼自身の自らを責める感情が募ってしまえば、また異能を暴走させてしまう可能性が高い。それが教会の捜索部隊に居所を掴まれるきっかけにもなり得るし、そうなればその余波がリスルにも及ぶことは想像に難くなかった。できることならば、もう自分たちを追い回す教会の追手などとは関わることなく、残り少ない余命を穏やかなに過ごすことをリスルは渇望していた。リスルはここでの生活は自分の素性が露見するか、自身の生命が尽きるまでの最後のモラトリアムにしようと決めていた。黒のロングドレスに白の高い詰め襟、長い茶色の緩やかな巻毛を覆う黒のベール――シスターの装束もなんとなく板についてきたリスルは与えられた部屋でせっせと調薬に励んでいた。元からある程度の植物に対する知識はあったものの、この礼拝堂の一角で寝起きするようになってから、神父のレイモンによって調薬や医療の知識をリスルは仕込まれていた。それらを学ぶことはリスルにとっては思いの外、楽しかった。未だに聖典の一節すらも諳んじられないことについては、レイモンにもこの礼拝堂に所属するもう一人のシスター――リスルの先輩であり、同僚であるアイリスには日々溜息を吐かれているが、そもそもリスルには信じる神などいない。もしも神がいるのであれば、人と酷似した異なる存在など創り給うはずはないし、このような異能者に対する迫害など起こったはずがない。『紅の魔女』などという通り名で蔑まれた身で異能者の弾劾を指導する組織の末端にその身を連ねているなど、因果というものに彼女は嘲りの念を覚えないでもなかった。
そんなことを考えながら、凍傷の薬や風邪薬といったこれからの季節を見据えた薬品を彼女は調合すべく、手を動かしていた。冬の季節が長いこの村においては、これらの薬は絶対に切らしてはならない必需品なのだとレイモンが言っていた。リスルが匙でとろみのある毒々しい紫色の液体をかき混ぜていると、腰まである長い黒髪に菫色の瞳のシスター服姿の娘――アイリスが部屋に入ってきた。 「シスター・リスル、あなたにお客様です。村長ご夫妻がいらっしゃっています」 「村長ご夫妻が……?」 「ええ。村長ご夫妻の元に身を寄せているという少年のことについて、あなたに相談があるとのことです。緊急の用件とのことですので、こちらにお通しします」 アイリスに誘われ、七十歳ほどの男女二人――村長のゼエンとその妻のハンナが部屋へ入ってきた。泣きそうな顔でハンナは開口一番に、 「イーシュ君を見ていないかしら? 朝から姿が見えなくて……」 あの子のことを気にかけてくださっていたから何かご存じないかと思って、と彼女は言った。 「それは……いなくなったということですか? 少しどこかに出かけたというわけではなく?」 嫌な予感を覚えながらリスルがそう問うと、ゼエンは首を横に振り、 「ああ、村の中は探すだけ探したんだが、どこにもいないんだ。今日はこの通りの天気だから心配している」 恐らく、あの少年はまた自分で自分のことを追い詰めてしまって、自ら姿を消したのだろうとリスルは思った。自分の中の負の感情を抑えきれなくなって、どこかでまた彼は異能を暴走させているかもしれない。 「あの子はいつだって傷だらけでした。あの子の事情はわかりませんけれど、たぶんあの子は自分で自分のことを傷つけているんだと思うんです。刃物だとは思うんですが、何かで傷つけた跡が全身にあって……。心配はしていたのですが、あの状態のあの子にどう声をかければいいのか、どうしてあげるべきだったのかわからないんです。ただ、今あの子がどこかで早まったことをしているんじゃないかと思うと、気が気じゃなくって……」 老女の口からぽつぽつとこぼれ出る言葉が次第に涙で湿り気を帯びていく。ハンナの目から涙が溢れ出し、彼女は声を上げて泣き崩れた。 少々誤解があるとはいえ、イーシュに死んでほしくないのはリスルとて同じだった。彼らのために、自分のために、何よりもイーシュ自身のために、あの少年を見つけ出して連れ戻そうとリスルは思った。 「わたし、イーシュを探してきます。村の外はまだ探していないでしょう?」 リスルは真摯な光をグリーンの双眸に宿し、そう宣言した。 「ですが、シスター・リスル……有り難いお申し出ではありますが、外はこの大雪、危険では……」 リスルの身を案じる村長の妻に、神に仕え、万人に親愛と施しを齎す作りもののシスターのとしての優しげな微笑を浮かべる。 「ご心配ありがとうございます。ですが、旅暮らしが長かった身ですし、こういった天候にも慣れていますから」 「そうですか……ですが、どうか、お気をつけて……」 ハンナに礼を述べると、リスルは上着を羽織る間も惜しんで、シスター服のまま部屋を飛び出した。箒を手に礼拝堂の掃除をしていた神父に何事か呼び止められた気がしたが、リスルは無視をした。リスルはそのまま、身一つで村を出た。静けさに包まれた銀世界に彼女のブーツが雪を踏みしめる音だけが響く。
付近に人目がないことを確認すると、彼女はシスター服の長い裾を翻して膝をつき、雪原へと冷え切って赤くなった手のひらを押し当てた。 リスルは腹の底に力を込め、意識を集中させる。大きな力の奔流が彼女の身体の中を駆け上がってくるのを感じた。彼女は白い地面に押し当てた利き手へと力の流れを集束させ、足元の雪に覆われた大地の声を聞こうとする。 雪混じりの風に煽られて、シスターの黒いベールが外れた。姿を現した茶色い巻毛は炎のように波打ち、新緑の双眸も紅へと色を変えていた。 (どうか応えて。あの子の――イーシュの辿った道を示して) 彼女がそう念じると、彼女の脳内に”何か”の声が響く。それはどっしりとした男の声音で、 『其の者の軌跡を此処に示さん』 《ヴィサス・ヴァルテン》の力に呼応して、数時間前の大地の記憶がリスルの目の前で再現され、白銀の雪原に赤い液体がぽつぽつと現れ始めた。降り続く雪に埋もれていた無数の金属の欠片が姿を現す。白い大地に突き立ったそれらは、物騒な煌めきを静かに放っている。 (血痕……それにこれは……) 恐らく、この辺りで一度イーシュの異能は暴走している。そして、赤い染みが続く先をリスルが視線で辿った先には真っ白な雪に覆われた山が聳えていた。 (ロイゼン山……イーシュはあそこに向かったの?) 傷ついた少年は何を思って、危険な雪山へと一人で足を踏み入れたのだろう。このまま遭難するようなことがあれば、命に関わる。それに、今は熊や狼といった獣たちは冬の眠りについているものの、何かの弾みで起こしてしまおうものなら悲惨な結末になることは火を見るよりも明らかだ。戦いを生業とする人々のように万が一の事態を切り抜くことができる自信は全くないが、それでも、あの少年を救いに行くのは同じ異能者である自分であるという確信がそこにあった。早くあの少年を見つけ出さないと、とリスルは改めて強く思った。 リスルは吹き飛ばされたシスターのベールを拾い上げ、雪を払い落とすと、イーシュの残した痕跡を追い始めた。木枯らしに吹かれて、色づいた木の葉がどこまでも高く青い秋の空に舞っていた。 イーシュは目の前に広がる記憶のままの風景に足を止める。紐で無造作に束ねた灰色の髪とグレンチェックのチェスターコートの裾が冷たい風で揺れる。 五年前の冬、リスルによって一命を取り留めたイーシュは、雪が溶け、花の蕾が綻び始める季節まで、この村に滞在していた。その間に、命を落としたリスルの葬儀を済ませ、村の復興作業へと彼は携わった。 それからというもの、イーシュはどうしてもこの村――ヴェレーンには足が向かないまま、国内を転々としていた。あの日、この村が山火事に巻き込まれたという負い目が彼の足をこの村から遠のかせた。 たまに立ち寄った町で日雇いの仕事をしては小銭を稼ぎ、その日暮らしを続けているうち、背も伸び、顔立ちも大人びて、イーシュは青年といっていい年になっていた。しかし、これから年を重ねて、あのころのリスルの年を追い越したとしても、到底彼女に追いつけるとも、彼女のようになれるとも思えなかった。 イーシュはキャメルのボストンバッグを持ち直すと、歩き始めた。時期が終わりに近づいてきた金木犀が風に乗ってふんわりと香ってくる。 すっかりあのころと変わらぬ景色を取り戻した村の中を懐かしさと鈍い胸の痛みを感じながら歩くうち、イーシュは比較的大きな一軒の家の前へと来ていた。以前、彼がこの村に滞在していたころ、一時期身を寄せていた村長の家だった。庭先ではまだ少し時期が早いはずの花の蕾が綻び、甘やかだけれどほんのりとスモーキーな色を覗かせていた。その花を見るとどうしても、もうこの世にはいない女性のことを思い起こしてしまい、イーシュは少し苦しくなる。 イーシュは扉をノックしようとして、躊躇った。悴んだ手が行き場をなくして彷徨う。 あの翌年の春に、自分の中でいろいろなことに半ば無理矢理区切りをつけてこの村を発つときに、いつでもまた訪ねてきてほしいとは言われてはいた。けれど、イーシュはそんな社交辞令を鵜呑みにして、招かれざる客が何をしにまたこの村を訪れたのかと、この家に住まう人々の表情が歪むのを見たくはなかった。 「あら、あなた、どこかで……?」 背後から年老いた女性に声をかけられ、イーシュは振り返る。草花をあしらった深緑のショールを肩に纏った小柄な老女が口元を押さえてこちらを
街道を馬車が走っていた。西へと続くこの街道の先には、宗教都市レシェールがある。 灰色の空からこぼれ落ちてくる花の霙を窓越しに何とはなしにスフェルが眺めていると、彼の向かい側に座るセイランが声をかける。 「スフェル殿下、もうすぐレシェールに着きます。しかし、本当によろしかったのですか? 王族ともあろう殿下の供が私一人で。このように少人数での視察など……有り体にいえば教会関係者にナメてかかられます」 「そう言うから、お前を連れてきたし、馬車での旅にすることを了承したではないか。本来なら、私が単身、オリーブで訪問すれば事足りることだというのに」 己の従者の諫言に、スフェルは嘆息まじりにそう返す。セイランは溜め息をつきたいのはこっちだと胸中で思いながら、 「殿下はあまりにも王族の威厳や形式というものを軽んじすぎです。こうした少人数での電撃訪問で教会側の意表を突き、取り繕う暇を与えないようにするという殿下の意図はわからないわけではないですが……。ですが、せめて身の回りの世話をする侍女の一人くらいはお連れください」 「子供ではないのだから身の回りのことくらい、自分でできる。それに、私にはお前がいるのだから、何も問題はないだろう? 私の側には信頼できる者だけがいればそれでいい」 「でしたら、いい加減エミルを殿下の侍女として召し抱えられたらいかがです? 彼女であれば、書類上は我が家の末席に連なる身分ですから、誰にとやかく言われる心配もありませんし、何より殿下を裏切ることは絶対にありませんから」 スフェルは窓の外の空と同じように表情を曇らせる。ヘーゼルの双眸に物憂げな色を浮かべると、 「私の都合で、あの子の人生をこれ以上掻き乱すことがあってはならないだろう。あの子は窮屈な城よりも市井で穏やかに生きるべきだし、今回のような視察に同行させればあの子の身が危険に晒されかねない。それに、一度あの子には私のそばで働くことを断られているから、しつこく誘うつもりはない」 「要はエミルに嫌われたくないというだけの女々しい理由でしょうに……まったく、殿下は年ごろの娘に嫌われたくない父親か何かですか?」 「……そういうつもりはないのだが」 「常々申し上げておりますが、殿下はエミルに入れ込み過ぎです。それに、以前に殿下がエミルに城で働くように勧めたのは出会って間もないころ
炎の波の中で壁が建物の焼け残った骨組みが黒々とその姿を浮かび上がらせていた。瓦礫が赤い光をちらつかせながら地面に折り重なっている。その様はさながら廃墟のようで不気味さを感じさせた。 イーシュは逃げ遅れた人がいないか確認しながら、崩れかけた建物を周っていた。まとわりついてくる空気が熱い。喉の粘膜を焼かれないようにイーシュは外套の袖口で鼻と口を覆う。 いつ崩れてくるともしれない、瓦礫と化した建物の残骸をイーシュは慎重に調べていく。先程も、柱を失った家の梁が落下してきて、消火活動の指揮を取っていた村長が頭を負傷し、運ばれていったのを見た。 近くから誰かの呻き声を聞いた気がして、イーシュは辺りを見回した。積み重なって倒れた家の柱の下から赤く焼け爛れた小さな人の手がのぞいていた。 「大丈夫ですか!」 イーシュは轟々と炎を上げる建物へと駆け寄り、柱の木材を押し上げようとした。焼けて炭になり始めているとはいえ、成長途中の少年が動かすにはそれは重過ぎた。べろりと手のひらの皮膚が剥ける。 小さく切れば動かすことができるかもしれないと、イーシュは思った。何かを切るにはお誂え向きの力が自分にはある。問題は自分がそれを一人で制御しきれるかどうかだった。 しかし、迷っているだけの余裕はない。イーシュ一人でもどうにか力を使いこなすしかなかった。失敗して力を暴走させてしまったらだとか、間違って下にいる人ごと切ってしまったらなどと躊躇してはいられなかった。 イーシュは目を閉じ、腹に力を込めた。意識を集中させ、鋼でできた花を思い描く。幸い、先程のロイゼン山での感覚はまだ覚えている。 体の中を背骨に沿ってせり上がってくる力の感覚を右腕へと誘導する。イーシュは琥珀色に光る目を見開くと、わずかに力を解放し、指先に鈍色の花を咲かせた。 イーシュは、鋼の花びらを太い木材にあてがい、慎重に切っていく。 額に汗が滲んだ。集中力が途切れれば、切ってはいけないものまで切ってしまいそうだった。 気道を焼かれたのか、喉がひどく痛かった。しかし、イーシュは手を動かすことをやめない。煙にやられて目も痛かった。しかし、今はそんな些事に構ってはいられない。 木材を小さく切り終え、イーシュは解放していた力を自らの中へ収めた。双眸が元の焦茶色へと戻っていく。 能力の行使で疲弊
煤と泥にまみれた二人がヴェレーンに戻ると、村はめらめらと揺らめく炎に包まれていた。夜と朝の狭間の色に染まった空とは対照的な色に照らされて浮かび上がる景色は、二人が覚えている平和な村からは遠くかけ離れていた。 記憶の中のトラウマを想起して、リスルは慄然として一瞬その場で立ちすくんだ。 「炎が……」 リスルは口の中でそう呟いた。自分が引き起こしたということが共通している目の前の事態は、全てを失った娘時代の晩夏の夜を連想するのには充分すぎた。 ほんの一度、季節が移ろうだけの短い間だったとはいえ、身を寄せ、世話になったこの村をリスルは故郷の二の舞にはしたくなかった。 しかし、長年使い続けた《レーヴェン・スルス》の影響を受けて弱りきっている上に、疲労で万全には程遠い今の体調では《ヴィサス・ヴァルテン》の力を使って消火を試みるのは危険だった。先程、ロイゼン山で力を扱い切れずに暴走させてしまっている以上、ここでまた同じことが起きないとも限らない。焦る気持ちを押さえようとしながら、リスルは何かできることはないかと考え続ける。 「……神父様」 リスルの様子を何もいえないまま気遣わしげに見ていたイーシュは人の気配を感じて振り返る。煤けた法衣に身を包んだ人の良さそうなその人は、イーシュ君と彼の名を呼ぶと、苦い笑みを浮かべる。 「こうなるような気はしていましたが……どうして戻ってきてしまったのですか。先程、忠告はしたはずですよ」 「だって……わたしのせいですから。わたしがもっとしっかり力を扱えていればこんなことには……」 蚊の中ような声でリスルは答え、俯いた。茶色い巻毛が彼女の横顔に浮かんだ表情を隠した。 どういうことですか、とレイモンはイーシュに目配せした。イーシュは泥にまみれたブーツの先で背伸びをして、レイモンへと耳打ちした。 「さっき、リスルさんが山で力を使って山火事の状況を探ろうとしたときに力を暴発させてしまって……。どうにも異能の影響で体調がよくないみたいで、力を扱い切れなかったみたいなんです。それで、そのときに発生した強風で村の方に炎が流されてしまって……」 なるほど、話はわかりましたとレイモンは頷いた。そして、彼は身を屈めて俯くリスルと目線の高さを合わせると穏やかにいう。 「シスター・リスル。あなたがすべてを背負い込む必要はあり
先を行くリスルに追いついたイーシュは、彼女と共に雪の積もった山道を歩いていた。辺りには煙が立ち込めていて、すぐそばにいるはずのリスルの姿さえも見失ってしまいそうなほどに視界が悪い。煙が目に染みて痛い。 リスルは辺りを探るようにしながら、慎重に歩みを進めていた。彼女は記憶の中の地図の情報を引っ張り出して、 「もう少し北寄りに進めば、崖になっていたはず。作業をするなら、たぶんそっちのほうがいいわね。元々燃えるものが少ないから、作業量を抑えられるわ」 方角すら怪しい中、二人はブーツの底で雪を踏みしめながら歩く。今の状況では、すぐにうっかり獣道へ迷い込んでしまう。 ふいにイーシュは体勢を崩し、足元を滑らせた。それまで立っていた場所の雪が崩れ、下へと落ちていく。咄嗟に持っていたシャベルを地面に突き立てたが、体重に耐えられずに傾いでいく。 「あっ」 声を上げたイーシュへとリスルの手が伸びてきて、腕を掴んだ。 「イーシュ、大丈夫?」 そういって引き上げてくれたリスルの腕は若い女性のものらしく華奢だった。イーシュは己を情けなく思いつつも、その腕に縋りながら這い上がる。 「ごめんなさい、わたしのミスね。思ってたよりもだいぶ進んでいたみたい」 「いえ……俺も注意不足だったので……。 ところで、ここが崖になっているってことはリスルさんが目指してたのはここですか?」 「そうみたいね。イーシュ、大丈夫そうなら、その辺りからずっと一直線に地面を掘って、溝を作ってくれる? わたしはこの辺りの木を切り倒すわ」 足元には気をつけてね、とイーシュへ注意を促すと、リスルは持ってきた斧の柄を両手で握り、振り上げようとする。しかし、気迫だけはそれっぽい感じを漂わせているが、姿勢がおかしいのかどことなく腰が引けている。生い茂る木々はどれも太く高かった。イーシュは何回目になるかわからないが、あまりにも無謀なことをしようとしていると思いが脳裏をよぎり、つい口を挟んでしまう。 「あの……リスルさん、斧を使ったことは……?」 「昔、教会の追手から逃げるときに投げつけてやったことならあるけれど……本来の使い方をしたことはないわね。それでもまあ、どうにかするわ。どうにかするしかないんだもの」 「無謀です……」 イーシュは半眼でリスルを見やりつつ、嘆息した。妙に気迫だけ
リスルとイーシュが湖畔の風車小屋に逃れてから三日が過ぎた。 肩から毛布を被り、椅子で眠っていたリスルは、明け方、イーシュによって揺り起こされた。 「リスルさん、起きてください。外が大変なことに……」 「ん……ふぁ……どうしたの、イーシュ」 眠い目を擦り、欠伸を噛み殺した間延びした声でリスルが応えると、イーシュは血相を変えて畳みかけた。 「外を見ればわかります! 山が燃えて……!」 山が燃えている。その言葉に反応して、リスルは完全に覚醒した。彼女は両頬を叩き、真顔になると立ち上がる。被っていた毛布を床に脱ぎ捨てると、彼女はイーシュに引っ張られるようにして小屋の外へ出た。 まだ夜の気配が色濃く残る暁の空の下、ヴェレーン村の向こう側にあるロイゼン山が赤く燃えていた。少女時代のトラウマを刺激され、リスルは口元を押さえて立ちすくむ。何とか絞り出した声も意味のない音にとなり、白い吐息と共に空気中へ霧散していく。 「な……」 山火事が起きていた。風向きが悪く、ヴェレーンへと炎が降りてくるのも時間の問題だった。 これに関われば自分はきっと、生きて朝日を見ることはないだろう。何となくそんな予感がした。 けれど、これは自分たちが招いた結果だ。リスルは我が身可愛さにこのままこの地を離れることなどできなかった。 「ロイゼン山へ行くわ。イーシュはここにいて」 ロイゼン山のある南西の方角へ走り出そうとするリスルをイーシュはその腕を掴んで止める。 「やめてください、危ないです。そもそも行って何をするつもりなんですか」 「わたしにできることをするの。《ヴィサス・ヴァルテン》の力をもってすれば、直接的な鎮火はできなくても、燃え広がる方向を変えることくらいはできるわ。緩衝帯を用意してそっちに炎を誘導してやれば……」 リスルは一人で木を切り倒して燃えるものを無くし、地面を掘って溝をつくることで延焼を食い止めるつもりだった。リスルがそれをイーシュに話すと、彼は首を大きく横に振った。 「無理ですよ! リスルさん一人でできることじゃないですよ! いくら異能があるっていったって、それ以外はリスルさんは普通の女の人じゃないですか! 無謀です!」 「無理でも無謀でもやらなきゃいけないの。これ以上、あの村に迷惑はかけられないもの。 イーシュ、気付いている?







